『双星の陰陽師』作者の助野嘉昭さんが公開した、漫画の“良い例と悪い例の図解”がためになる内容となっています。創作をする人であれば、何か思うところがあるはず。

【画像】図解の補足

 良い例では、「ストーリー設定、世界観、作者の思想」の横を登場キャラクターたちが自分たちの考えをもって自主的に動いています。一方悪い例では、「ストーリー設定、世界観、作者の思想」の中にキャラクターたちが飲み込まれてしまう構図。人によっては、悪い例に当てはまる作品がすぐに思い浮かぶかもしれません。

 この図は、助野さんがスタッフと漫画論について語ったときに出た「漫画はキャラを動かすもので作者の意図は入ってはいけない/物語が作者に動かされてしまうとキャラが死ぬ」話をまとめたもの。「キャラが描けてない」といった意見をされる人は参考にしてほしいとしています。

 また、助野さんは補足ツイートとして、この図のさらに詳細な説明も投稿。創作をする人は、一度見ておくと良さそうです。

画像提供:野嘉昭さん

なるほど……


(出典 news.nicovideo.jp)

漫画家(まんがか)は、漫画作品を描く人および職業。1コマの風刺漫画、4コマ漫画、1話完結型漫画、長編ストーリー漫画などの絵を描く制作者が漫画家と呼ばれ、分類されている。 日本漫画家協会は英名が「JAPAN CARTOONISTS ASSOCIATION」であり、漫画家
11キロバイト (1,650 語) - 2021年9月29日 (水) 08:34


漫画家が解説する、「漫画の良い例と悪い例」。
仕事などで「創作」をされる方には、参考となる部分がありそうです。
その内容をご覧ください。

コメント抜粋

鉄血じゃんw


脚そ考


思想はともかく、図がすんげぇ分かりやすい。飲み込まれてしまいそうなほどに。


けも〇フレンズじゃんw


悟空の「ドラゴンボールで元に戻れるんだ気にすんな」発言は近いものがあるかね。他に読者に動かされるのもよくないけど。


シェイクスピアの『マクベス』はスチュアート朝ジェームズ一世におもねった内容で取り立てて欠点のないマクベスを悪役に仕立て上げているしヘンリー八世のイングランド国教会設立に伴ってカトリックとプロテスタントが文字通り血で血を洗う争いを繰り広げていたから『ハムレット』が生まれたのであって。今の中身のない漫画が描きたいのならそれでいいけど何が言いたいのかが重要だから。


真っ先に思い付いたのがテイルズオブゼスティリア…


それから最初に言っとくけど、編集は金儲けの商品を描いてほしいのであって作者の主張は関係ないから。今の漫画は過去の縮小再生産で昔流行ったものを今風に打ち直してるだけでそれが受けてるから編集はそれを描けっていうけど、真面目に描いてる人を*にする風潮だけは生まないでね。白土三平先生は手塚治虫先生に漫画に初めてイデオロギーを持ち込んだって評価されてるからね。


漫画の、実写ドラマ化  


それから何が面白いかは“一貫性があるかないか”だから。愛とか友情とか否定できないものを信じて、キャラが紆余曲折して迷って最後に辿り着くのがそれでもよかろう。わからない人は『ヨブ記』を読んでみるといい。今の作品に共通する強敵や挫折なんていうのが、信仰を試す神や誘惑するサタンだとわかるから。創作に携わる人間が最後に拠り所にするのは誰にも否定できない題材でしょ?


よく言われる創作の方法論であってそうしないといけないかどうかは人による。


図示を見るに後者は「美味しんぼ」そのまんまだな。


創作物は個々人の表現の手段であるが、多くを惹き付ける為にはその作品に数多の魅力を持たせ散りばめる必要がある 物語に於いては、それが世界観であり登場人物達でありそのそれぞれの見た目性格等の個性でありそれぞれの関係性である では作者の思想はどこに置くべきか? 直接それと見せるのではなく、作品内に片鱗を細かに散りばめ総体とするのが最も作品を損なわず巧い作りと言える


そして、そういった否定できない命題をぶら下げて作家が描いてきたのが弱者救済を謳ったプロレタリアート作品のような革命気取りの作品群だからね。そういったものに簡単に騙されるのが大衆というものだ。今の時代はそういうイデオロギーに疲れてしまったと考えるなら私はそれを否定しない。でもそれを甘んじて受け入れる土壌を作るような真似はよせよ。そこから羽ばたくものがあるだろ?


タイトルで「キャラが*」が、ストーリー中で死亡する展開になるのかと誤認したわ。メタ的な意味でキャラが*ってことね。まあ、一つのパターンとしてはよくある話だな。尤も、そこに固執し過ぎると今度は別の失敗をしそうな気もするが。


作者が何度も退場させようとしたけど結局最後まで生き残った、銀河英雄伝説のアッテンボローとビッテンフェルトを思い出した


出す出さないは別として小説書いていると、マジでやりたいこと優先でキャラがおざなりになることが多々ある。本当に面白いのを書きたいなら、人形遊びにならないようにということなんだよね。


「キャラが作者に動かされてしまうと物語が*」


尺が決まっていて登場人物も多いとなるとマネジメントが大変よね...(作者が忘れていたとかもあったなぁ)


同人誌(アンソロジー含む)でよく見る光景(と言うと描いてる方には分かり易い)


キャラを動*んじゃなくて、物語が狙い通りに動くようにキャラを配置するのが作者でしょ?


物語を考えてからキャラを作るか、キャラを作ってから物語を作るかのどちらかでしょ?


逆に言うだけの話なんだけど、作者が話の大枠を作って、その登場人物が生き生きしてるかって事でしょう。余りに説明ばかりだと、見ていて読者は辟易するし、逆に説明も無く、登場人物が突っ走っても、それは独りよがりで漫画じゃない。常に俯瞰して、作者の書きたい事、読者の興味、登場人物の魅力、この三つをバランスよく配置できるかどうか


創作論の一つだけどそれが全てではないだろ。例えば寓話はストーリーや結末に寓意を込めることが創作の第一義に置かれるから、キャラクターが徹頭徹尾作者の人形で居続けてくれた方が物語全体の収まりが良くなるケースがある


NTR作品全否定やなw


寓意って言うかこの話は政治思想って言いたいのをこらえた感じかなあ


でも独歩ちゃんは「面白けりゃいいんだよ」って言ってたし…


獣友達Ⅱ…


「キャラが勝手に動いて話を作ってくれた」という表現はよく聞くが、「キャラクターの設定を綿密に作り込んでいたから自然と展開が浮かんできた」という意味か「先の展開を考えずただなんとなく書いてたら一応形になった」という意味かで全く違う。こういう表現を好む人は割と後者の方が多いように思う


ここで指摘した状態になって更にキャラ個人個人がクッソありきたりな奴だともう矛盾点山盛りのストーリーに成り下がるんだよなぁ…ウノナミとか国2みたいな感じになる


キャラが生きててストーリーが出来上がるタイプでも、ストーリーありきでキャラがあがく様を見るのも、ぶっちゃけどっちも面白い。片方が*でるように見える作品ってのは結局、単純に作り手の手腕が足りねぇんだと思うわ


…まず第一にキャラが立っててストーリーがしっかりしてる作品はいくらでもあるという前提を元に考えよう。「キャラが*でるけどストーリーが面白い」か、もしくはその逆といった低レベルな次元の思考は捨て去ろう。どうやったらキャラが立っててストーリーがしっかりしてる作品を描けるかというテーマにおいて物語が作者の狭い価値観に囚われてはならない、という意味なら理解できる。


ちょっとズレるが、読者がキャラに過剰に感情移入したあげくストーリーに激怒し、あげく作者に過干渉して出番や役割を変えさせてしまいメチャクチャになる。という例もありそうで怖いな(古い創作だがミザリーみたいなのとか)今はほら、SNSとかでネガチャンしやすいし……(粉砕したゲームディスクアップロードされた下級生2とか)


優れた物語作者は、多重人格かなんかじゃないか?とか思ったりする。あんな個性マチマチな人達がみんな作者の頭の中に居るんでしょ?


単なる物語の構成力不足なのでは。構成がしっかりしてればおのずと筋が通るわけだから、どういう風に書いてもいいと思うけどね。


物語が狭い価値観に囚われてはならないという視点が要するに『ヴェニスの商人』でユダヤ人差別の娯楽作と見るかユダヤ人の悲劇と見るかで評価は分かれる。自分とはまったく違う、それどころかまったく別の視点が生まれることで物語が重厚になる。そしてエドマンド・キーンがシャイロックを主役に演じたのが1814年で、シェイクスピアの時代の200年後。我々の理解は余りに遅すぎる。


物語が対立する何かの衝突であると解釈するなら、主人公とは別の否定できない価値観が存在して激突することに我々は面白みを感じるんだろう。ヘーゲル哲学でいうならそれがアウフヘーベン。キャラが立っている、とはつまり多種多様な価値観に寛容で生態系のようにそれが偏在している作品ということだろう。でも、『MGS』の小島監督ですら結局はボス第一主義に陥ってしまってるからね。